長生酵素

原田真二 「てぃーんず ぶるーす」 

「てぃーんず ぶるーす」(TEENS' BLUES)は、1977年10月25日にリリースされた、原田真二のデビューシングルである。
フォーライフオーディションに合格し、新興レーベル「フォーライフレコード」からリリースされたシングル。デビュー時の、トリプルシングルス企画の第1弾シングル。

高校3年の時、大学入学後に決まっていたデビューに備え、広島市内の平和大通り沿いのベンチで作りためた作品の一つ。この曲は元々、「君の世代へ」というタイトルの原田自身の書いた原詞が存在した。当時社会問題化していた暴走族問題なども取り上げ「新聞では毎日○○なニュースがにぎわしているけど、俺たちはこのままでいいのか?」というような、自分たちの世代に向かっての強い想いと共に、世界平和の願いも込めて歌った社会派のストレートなメッセージソングであった。原田は自身が作詞作曲を手掛けたこの曲をデビュー曲にしたいという希望があって周りに聞かせていた。

作詞: 松本隆/作曲: 原田真二/編曲: 鈴木茂・瀬尾一三

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原田真二 「キャンディ」 

「キャンディ」は、1977年11月25日にリリースされた、原田真二の2枚目のシングル。

1977年10月から3ヶ月連続でシングルを発売するというトリプルデビューを果たした、原田のトリプルシングルス第2弾シングル。 このシングルでは、B面曲を含め、編曲も手がけ(弦アレンジは阿部雅士)、原田のライブバンドWAVEの初期メンバー古田たかし、デイブ伊藤、カズ南沢等、若手中心(原田を含め3人が10代)での録音となった。

作詞:松本隆/作曲:原田真二/編曲:原田真二・阿部雅士

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堀江 淳 「メモリーグラス」 

「メモリーグラス」は堀江 淳のデビューシングルである。リリースは1981.4.2。

北海道苫小牧市生まれ。苫小牧南高等学校卒業後、札幌のライブハウスを中心にプロデビューを目指して活動する。 1979年、CBSソニー(現・ソニー・ミュージックエンタテインメント)の第1回SDオーディションに合格し、1981年、「メモリーグラス」でデビュー。中性的な容姿・声も話題になり、デビューシングルは70万枚の大ヒットを記録する。オリコン最高3位。

作詞・作曲:堀江淳

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小坂 恭子 「想い出まくら」 

「想い出まくら」は小坂 恭子の楽曲。1975年に、リリース。

人物・略歴
1973年に、第5回ヤマハポピュラーソングコンテスト(通称:ポプコン)にて「私の好きな組み合わせ」で最優秀歌唱賞を受賞。翌74年の第7回のポプコンにて「恋のささやき」にてグランプリに輝き、メジャーデビュー。 1975年に、リリースした「想い出まくら」が130万枚(オリコンでは85万枚)を超えるヒットとなり、代表曲となった。 現在でも、ステージを中心に活躍し、官公庁のイメージソングや、他のシンガーへの楽曲提供なども手がけている。

作詞・作曲:小坂 恭子

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キャンディーズ 「なみだの季節」 

「なみだの季節」(なみだのきせつ)は、キャンディーズ通算4枚目のシングル。1974年9月1日発売。

解散コンサート時点でのシングル売上は累計13万枚(CBS・ソニー調べ)。 曲の前半は、主旋律がソロでバックコーラスが2声和音、サビは主に3声和音とユニゾンである。デビュー曲の「あなたに夢中」以来続いてきた、和音を前面に出すサビはこの曲をもって一旦休止となった。さらに「あなたに夢中」からこの「なみだの季節」まで、スーがリードボーカル(センター位置)を務めていたが、次曲の「年下の男の子」から、リードボーカルはランに譲る事となった。

作詞:千家和也、作曲・編曲:穂口雄右

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甲斐バンド 「裏切りの街角」 

「裏切りの街角」(うらぎりのまちかど)は、1975年6月5日に発売された甲斐バンド2枚目のシングル。

オリコン最高7位。 デビュー後、初のベスト10入りを果たした楽曲である。 発売から徐々に火がついたロングセラーセールスで、オリコン10位内に初ランクされたのが9月、 その前後チャート20位内に11週間入る。最高位の7位は、発売の4ヶ月後の10月27日に記録した。 この曲で、第8回日本有線大賞優秀新人賞を受賞している。

作詞・作曲:甲斐よしひろ

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MY LITTLE LOVER 「Hello Again ~昔からある場所~」 

「Hello, Again 〜昔からある場所〜」(ハロー・アゲイン むかしからあるばしょ)は、MY LITTLE LOVERの3枚目のシングル。1995年8月21日リリース。後に数名のアーティストがカバーを行い、2010年7月28日にはJUJUによるカバーがシングルとしてリリースされた。

前作「白いカイト」から約1ヶ月という早いペースで発売された。同年12月に発売された1枚目のアルバム『evergreen』以降、プロデューサーの小林武史がメンバーとして参加しているため、本作がakkoと藤井謙二という2人体制での最後の作品となる。2014年現在、MY LITTLE LOVERのシングルとしては最大のヒット曲である(オリコン調べによる)。 発売週のオリコンシングルチャートで2位を記録した後、毎週10万枚以上の売上を維持し、登場4週目にはグループ初の同チャート1位を獲得するに至った。翌週も更に週間売上を伸ばし2週連続で1位を獲得している。既にロングヒットの態勢に入っていたデビューシングル「Man & Woman」、発売時売り上げの少なかった「白いカイト」も、本作のヒットでロングヒットとなった。

以下、アルバム『singles』のブックレットより引用。
「白いカイト」にも通じる、少年性がひとつのテーマとなった曲。カラオケでも大いに親しまれ、大ヒットを記録した。曲は藤井謙二と小林武史の共作。「最初謙二が作ってきた楽曲は難解で(笑)、でもサビの転調とか既にあったし、クセはあるけど泣ける要素も感じて、そこから青春像というか、少年が慣れ親しんだ場所を離れる際の痛みと希望というか、そんな定型へと拡げていったのを覚えてます」。そして、この楽曲が多くのファンに受け入れられたことが、さらにこのユニットの可能性を拡げたのは言うまでもないし、三人の出会いが音楽的により絡み合い始めたのもこの曲だった。「イントロのギターを謙二に弾いてもらった時、彼がすごく生き生きと見えた。そんな彼のギターのリフが、それ以降のマイラバのひとつの形になっていきます」。

作詞:小林武史 作曲:藤井謙二 & 小林武史
編曲:小林武史 & MY LITTLE LOVER

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THE BOOM 「島唄」 

「島唄」(しまうた)は、日本のロックバンド・THE BOOMの楽曲である。
1992年12月12日発表の9枚目のシングル。沖縄方言により沖縄限定販売。

THE BOOMは1992年1月22日発売のアルバム「思春期」で三線や琉球音階など沖縄音楽の要素を取り入れた「島唄」を発表。 またその年の12月12日には沖縄の方言(ウチナーグチ)で歌われた「島唄(ウチナーグチ・ヴァージョン)」を沖縄県限定でリリース、瑞穂酒造の泡盛「琉球泡盛 Xi(クロッシー)」のテレビコマーシャルソングに起用され(このCMも沖縄県限定)、沖縄だけで1万枚を超える売り上げを記録した(後に全国発売され、50万枚近くを売り上げている)。 一方、標準語で歌われた「オリジナル・ヴァージョン」のシングル全国発売の要望も高かったが、もともとその予定はなかったようである。THE BOOMのボーカルで「島唄」の作詞・作曲を担当した宮沢和史も当時の沖縄ブームに便乗したシングルリリースには否定的であったが、いろいろな人に意見を聞いた結果、「オリジナル・ヴァージョン」をシングル発売することにした。特に喜納昌吉(前参議院議員)から贈られた「(『島唄』を単なる沖縄音楽の真似事、と批判する者もあるが)音楽において、『魂』までコピーすれば、それはもうコピーなんかじゃないんだ」という言葉に背中を押された、と宮沢はTV番組でコメントしている。

作詞・作曲:宮沢和史

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ハナ肇とクレイジー・キャッツ 「無責任一代男」 

「無責任一代男」(むせきにんいちだいおとこ)は1962年7月20日に発売されたハナ肇とクレージーキャッツ3枚目のシングル。歌は植木等。

東宝クレージー映画第1作「ニッポン無責任時代」の主題歌として作られたこの歌は、映画と共に大ヒットした。ヒットの理由について青島は、「大人たちの不誠実さも反吐が出るほど見せられてきた戦後の若い世代には、この唄は我が意を得たとばかり受け入れられたに違いない」と分析している。これ以降、植木はこの曲の「こつこつやる奴ぁ、ご苦労さん!」というフレーズと共に「無責任男」というイメージが定着することになる。 また、この曲を「名作」と評している小林信彦は「シャボン玉ホリデー」において初めてこの歌を聞いたときの「ショックを忘れることができない」と回想している。 青島によると、「タモリはこの歌を座右の銘にし、ビートたけしはこの歌で人生観を変えられた」らしい。つまり、そのくらい強烈なインパクトを「戦後ベビーブーマーの男たち」に与えたという。 1990年発売の植木のヒット曲メドレー「スーダラ伝説(編曲:宮川泰)」にも収録されている。

作詞:青島幸男 作曲:萩原哲昌

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ハナ肇とクレイジー・キャッツ 「スーダラ節」 

「スーダラ節」(スーダラぶし)は日本の昭和期の代表的な流行歌である。ハナ肇とクレージーキャッツ、とりわけ植木等が爆発的な人気を得るきっかけを作った曲で、レコードは1961年8月20日、東芝音楽工業(現在のユニバーサルミュージック合同会社・Virgin Musicレーベル)から発売された。80万枚売れた。

それまでのレコード制作はレコード会社主導だったが、このレコードの原盤は渡辺プロダクションが制作し、東芝音楽工業は販売のみ担当した。芸能プロが初めてマスターテープを制作したレコードでもある。「今で言うインディーズである」 元々は『こりゃシャクだった』のB面を埋めるために作られた曲であったが、こちらのほうがヒットしてしまい、後にA面とB面が入れ替えられている。シングル盤のジャケット写真には、当時病気療養中であった石橋エータロー以外の6人が写っている。このジャケットのデザインは1986年の「実年行進曲/新五万節」にも引用され、クレージーのメンバーがオリジナルと同じポーズをとっている。

作詞:青島幸男、作曲:萩原哲晶

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