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中村晃子 「虹色の湖」 

「虹色の湖」(にじいろのみずうみ)は、1967年10月10日にリリースされた、中村晃子の7枚目のシングルである。

1967年当時音楽界を席巻していた「一人GS」風の編曲・演奏である。1965年のレコード・デビュー以来の中村晃子初のヒットで、中村は翌年の『第19回NHK紅白歌合戦』への出場を果たした。 ロ短調である。

作詩:横井弘/作曲:小川寛興/編曲:森岡賢一郎

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ハナ肇とクレイジー・キャッツ 「無責任一代男」 

「無責任一代男」(むせきにんいちだいおとこ)は1962年7月20日に発売されたハナ肇とクレージーキャッツ3枚目のシングル。歌は植木等。

東宝クレージー映画第1作「ニッポン無責任時代」の主題歌として作られたこの歌は、映画と共に大ヒットした。ヒットの理由について青島は、「大人たちの不誠実さも反吐が出るほど見せられてきた戦後の若い世代には、この唄は我が意を得たとばかり受け入れられたに違いない」と分析している。これ以降、植木はこの曲の「こつこつやる奴ぁ、ご苦労さん!」というフレーズと共に「無責任男」というイメージが定着することになる。 また、この曲を「名作」と評している小林信彦は「シャボン玉ホリデー」において初めてこの歌を聞いたときの「ショックを忘れることができない」と回想している。 青島によると、「タモリはこの歌を座右の銘にし、ビートたけしはこの歌で人生観を変えられた」らしい。つまり、そのくらい強烈なインパクトを「戦後ベビーブーマーの男たち」に与えたという。 1990年発売の植木のヒット曲メドレー「スーダラ伝説(編曲:宮川泰)」にも収録されている。

作詞:青島幸男 作曲:萩原哲昌

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ハナ肇とクレイジー・キャッツ 「スーダラ節」 

「スーダラ節」(スーダラぶし)は日本の昭和期の代表的な流行歌である。ハナ肇とクレージーキャッツ、とりわけ植木等が爆発的な人気を得るきっかけを作った曲で、レコードは1961年8月20日、東芝音楽工業(現在のユニバーサルミュージック合同会社・Virgin Musicレーベル)から発売された。80万枚売れた。

それまでのレコード制作はレコード会社主導だったが、このレコードの原盤は渡辺プロダクションが制作し、東芝音楽工業は販売のみ担当した。芸能プロが初めてマスターテープを制作したレコードでもある。「今で言うインディーズである」 元々は『こりゃシャクだった』のB面を埋めるために作られた曲であったが、こちらのほうがヒットしてしまい、後にA面とB面が入れ替えられている。シングル盤のジャケット写真には、当時病気療養中であった石橋エータロー以外の6人が写っている。このジャケットのデザインは1986年の「実年行進曲/新五万節」にも引用され、クレージーのメンバーがオリジナルと同じポーズをとっている。

作詞:青島幸男、作曲:萩原哲晶

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ヴィレッジ・シンガーズ 「亜麻色の髪の乙女」 

「亜麻色の髪の乙女」(あまいろのかみのおとめ)は、ヴィレッジ・シンガーズの歌、また1968年2月25日に発売された5枚目のシングルである。
原曲は1966年に青山ミチが「風吹く丘で」という題名で初録音した曲である。

ヴィレッジ・シンガーズのバージョンが「亜麻色の髪の乙女」の原曲だと思われがちだが原曲、原題は「風吹く丘で」である。 発売直後に諸般の事情により店頭から回収され、製造中止になってしまった。その後、ヴィレッジ・シンガーズがTBSの朝のテレビ番組『ヤング720』で、今月のテーマソングとして歌った。 また2002年に発売された島谷ひとみのカバー版がオリコンチャート最高4位に入るヒットとなった。

作詞:橋本淳 / 作曲:すぎやまこういち

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長谷川 きよし 「別れのサンバ」 

長谷川 きよし(はせがわ きよし、1949年7月13日 - )は、日本のシンガーソングライター、ギタリスト。本名は長谷川清志。東京都出身。

東京教育大学附属盲学校(現・筑波大学附属視覚特別支援学校)卒業。 緑内障のため2歳半で失明し、全盲となる。高校三年生のときシャンソン・コンクールに4位入賞。1969年、「別れのサンバ」でデビュー。発売直後はあまり反響のなかった曲ではあったが、深夜放送で流れるようになると、フォーク世代の若者から支持され、大ヒットとなった。 超絶的なギター演奏と、透明度の高い声によるバラードで人気を博す。

作詞:長谷川きよし、作曲:長谷川きよし

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尾藤イサオ 「あしたのジョー」 

当曲は1969年、ボクシングアニメ『あしたのジョー』の主題歌である。この曲は尾藤イサオの代表作のひとつである。

『あしたのジョー』の主題歌には「ルルル〜」と歌う箇所があるが、寺山修司はこの部分の歌詞も作っていた。レコーディング時に尾藤が歌詞を忘れ、アドリブで歌ったところ、寺山が「この方がいい!」と言ったそうである。

作詞:寺山修司、作曲:八木正生

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ザ・フォーク・クルセダーズ 「悲しくてやりきれない」 

「悲しくてやりきれない」(かなしくてやりきれない)は、ザ・フォーク・クルセダーズの2枚目のシングルの表題曲。1968年3月21日に東芝音楽工業 (キャピトル・レーベル) から発売。
2枚目のシングル曲として予定されていた「イムジン河」が発売自粛となったため、それに代わる曲として制作された。加藤和彦が「イムジン河」のコードを反対からつなげて作ったとされる。当時パシフィック音楽出版(現フジパシフィック音楽出版)会長だった石田達郎から「イムジン河」に代わる新曲を急遽作曲するよう強要され、会長室に3時間缶詰にされたときに作ったものである。加藤曰く「最初はいろいろとウイスキーだとかを物色していたが、残りわずかという時間になって、そろそろつくらにゃ、という気持ちで譜面に向かった。「イムジン河」のメロディを逆に辿っているうちに、新たなメロディがひらめいた、実質的には15分ほどでできた」としている。

作詞:サトウハチロー、作曲:加藤和彦

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岡林信康 「山谷ブルース」 

岡林 信康(おかばやし のぶやす、1946年7月22日 - )は、日本のミュージシャン。「フォークの神様」の愛称で知られる。 実家は教会で、父親は牧師。現在は京都府亀岡市在住。 1968年、京都で行われた第3回フォークキャンプに参加。同年9月、山谷に住む日雇い労働者を題材とした「山谷ブルース」でビクターよりレコードデビュー。

作詞・作曲:岡林信康

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ザ・ピーナッツ 「恋のバカンス」 

「恋のバカンス」(こいのバカンス、仏:VACANCE DE L'AMOUR)は、1963年4月に発表されたザ・ピーナッツ歌唱の日本の歌謡曲である。 前年1962年の「ふりむかないで」に続くザ・ピーナッツのオリジナルソングによるヒット曲。ジャズの4ビートを生かした、歌謡曲としてはかつてなかったほどのスウィング感に満ちあふれた楽曲で、シングル発売直後より話題となり、同年に発表された舟木一夫の「高校三年生」、梓みちよの「こんにちは赤ちゃん」、坂本九の「見上げてごらん夜の星を」等と並ぶ大ヒット曲となったが、この年にヒットしたこれらの曲の中では2007年1月14日に制定された「日本の歌百選」に唯一選ばれなかった。

作詞:岩谷時子、作・編曲:宮川泰

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ザ・ブロードサイド・フォー 「若者たち」 

ザ・ブロードサイド・フォーは、黒澤明の息子黒澤久雄が結成したフォークグループ。 1964年、高校時代からバンドで活躍していた黒澤久雄が成城大学在学中に、鶴原俊彦、横田実を伴って「ザ・ブロードサイド・スリー」を結成し、1965年5月にアルバムを1枚リリースした。 同年、山口敏孝を加え、「ザ・ブロードサイド・フォー」と改名。1966年9月ビクターからリリースした『若者たち』が同名ドラマの主題歌として大ヒットをするが、同年秋に黒澤の留学により解散。

テレビドラマ:1966年版
両親を亡くした5人兄弟が、友情・恋愛・確執などを繰り返しながらも逞しく歩き続けて行く青春ドラマ。視聴者の共感を呼び、開始当初は低かった視聴率も回を追うごとに上昇していった。内容は、1965年11月29日付の毎日新聞朝刊「ある家庭」という特集記事で紹介された、実在の家族を素材に企画されたという。また、ドラマの人気上昇につれ後述の同名主題歌も大ヒットした。 しかし、1966年9月23日放送予定の第33話「さよなら」は、在日朝鮮人に対する日本人による差別を描いていたのだが、その直前に平新艇事件が発生したため、放送が中止された上、9月30日をもってドラマ自体も打ち切られた。

作詞:藤田敏雄、作・編曲:佐藤勝

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